人生は有限だから面白い!   「死」について考えてみた

先日、友人のお父さんのお通夜に行ってきた。
年末に亡くなったため、喪主を務めた彼はさぞ大変だったことだろう。
30歳を間近に迎えると、周りで亡くなる人が増えてくる。
昨年だけでもぼくの親戚は2人も亡くなった。
共に病気で入院生活が長かったため覚悟はできていたが、亡くなったあとの脱力感を振り返ると「覚悟」なんて出来ていなかったのではと痛感した。
韓国ではES細胞に関する論文が捏造されたものだったということで大変な騒ぎとなっている。
ES細胞とは、その細胞から体を構成するあらゆるタイプの細胞を作り出すことができるもので、大病の治療にも大きく貢献すると高い期待をもたれていた。
だが、今回の捏造騒動により、そもそもES細胞というものが作られていなかったことが判明し、大病にかかっている人には気の毒だが個人的にはES細胞が誕生していないことを知りほっとした口だ。
ES細胞が誕生したら、今よりもさらに寿命が延びるだろう。
そうすれば高齢化がさらに進展する。
でも、ぼくにとっては高齢化の進展に伴い財政負担が増大するなどという課題は大したものではない(大きいけど、これから取り上げるものと比べたら)。
先進国では若者の無力が大きな課題として取り上げられている。
国が豊かになり目の前の目標がなくなってしまっては、無力になってもおかしくない。
ちょっとの努力でそれなりのリターンを確保することは、発展途上国に住む人よりもたやすいし、世の中が便利すぎてこれ以上なにを求めてよいのかがわからないからだ。
旅をしていても、旅先で出会うのはたいてい先進国からやってきた人たち。
中には安い物価で生活できることに味をしめて沈没してしまう人だっている。
そうした人たちを横目に、現地の人は日銭を懸命になって稼ぐ。
なぜ貧しい国の人が懸命になって働き、裕福な国の人は意欲を失ってしまっているのだろうか。
ぼくはこの問いに対する回答を「死」に対する認識に求めた。
上でも書いたように、日本は医療制度が発達し年々平均寿命が高まっている。
織田信長は「人生50年」と言っていたらしいが、現代では「人生80年」と言ってもおかしくないほど平均寿命が長い。
そのため、「まだまだ人生長いもんねぇ」という考えが頭をよぎり目の前にある時間を無駄に消費してしまいがちだ。
でも、平均寿命なんて所詮「平均」寿命であって、中には早くして命を失うことだってある。
そのことを意識していない人がいかに多いことか。
平均寿命の高まりにより、周りで亡くなる人は少ないも当然少ない。
だいたい、核家族化が進展していることもあり身近の人が亡くなることが少ないのかもしれない。
こうした状況では人生に与えられた時間は有限なのだという認識は弱い。
周りで誰かがなくなれば「死」を感じ、その亡くなった人のためにもうかうかしていられないという緊張感が生まれるだろう。
それが身内であれば余計に緊張感は高まる。
身内を亡くすことは自分の理解者を失うことでもあり、それがためにその後の人生に立ちはだかる障害には自らの力で立ち向かわなけらばならないという責任がさらに増すからだ。
そしてその緊張感がそれぞれの人生の充実度を高める。
途上国では未だに日本とは比較にならないほど平均寿命は短い。
そして不慮の事故により命を失う可能性だって日本よりも多いだろう。
だらだら若者対策に乗り出すのであれば「死」というものについてもっと教育してみるというのはどうだろう。
この大切な時間を失うことほどもったいないものはない。
誰の人生にも「死」という「終わり」が訪れるのだと。
平均寿命が延びるというのは時として困ったことなのかもしれない。
「死」とは悲しいものではなく、実は故人からの激励という形の最後のプレゼントととらえたら悲しさも吹き飛ぶのかも。

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