映画「ページ・ワン:ニューヨーク・タイムズ」を観て、諸々を考える

開催中の恵比寿映像祭で、アジア初公開と謳われている映画「ページ・ワン:ニューヨーク・タイムズ」を観た。
簡単なあらすじは下記の通り。

blog、twitterなどネットメディアの台頭により従来築いていたメディアとしての地位がゆらぎ発行部数の縮小にも見舞われる紙メディア。
舞台はアメリカの中で最も権威ある新聞ともされるNY Times。
そのNY Timesにもネットメディアの脅威が迫り、彼らも人員削減などを行いながら残されたメンバーは「ジャーナリスト」としての誇りを胸にペンを奮う(正確にはキーボードを叩く)。
果たして彼らに光明は。

アメリカはもとより、世界中で旧来メディアの地位が揺らいでいる。
新聞社は潰れ、ケーブルテレビは潰れ、雑誌は廃刊に追いやられている。
そして、これらの衰退を尻目に伸びているのが新興メディアと称されるネットメディアだ。
ネットメディアを牽引しているのがtwitter、facebook、wikileaksなどだ。
Googleなどのポータルサイト(Googleをポータルサイトに分類するかの議論はおいといて)もニュースを配信している点では旧来メディアの脅威として立ちはだかっている(実際に、作品の中では公聴会のシーンが流れたりして、旧来メディアの対抗軸として描かれていた)。
ネットメディアの台頭により変わったことは、ニュースに即時性がさらに高まったこと。
「瞬時」とも言えるほどの勢いだ。
そして、無料で情報は手に入ると受け手が思うようになったこと。
最後に、拝金主義とも言える姿勢で、「読者が読みたいものを与えることで儲けることが善」という価値観で情報を流すメディアも目立ってきた。
ところで、旧来メディアはビジネスとしてこれから成り立つのだろうか。
テレビは、ラジオは、雑誌は?
中でも新聞が最も厳しい位置に立たされるのではないだろうか。
即時性ではネットには叶わない。
twitterの拡散性は目を見張るほどだ。
twitterなどで頻繁に話題に上がっていることをネットメディアが紹介し、それを紙の新聞が後追いするカタチだ。
時間があるので裏取りはできるだろう。
しかし、新聞が裏取りを完全にできる保証はない(作品中でのイラクの大量破壊兵器の話みたいに)わけで、であれば新聞の価値とはいったいどこにあるのだろうか。
テレビ、ラジオ、雑誌は「まだ」新聞よりは自らの立ち位置を築きやすい(時間の問題ではあるけれど)。
ちなみに、ぼくは新聞を購読していない。
普段の情報元はもっぱらネットだ。
情報を無料で入手することができるからだ。
そして、もう一つ、新聞の記事の質に疑問を持っているからだ。
これまでにいくつか取材を受けた経験があるが、所詮は記者のフィルターを通過した(理解できた)内容しか掲載されないわけで、こちらの真意が記事に反映されないこともあったからだ。
確かに、限られた人数で同時並行的に複数のジャンルにまたがるテーマを取材し記事に起こすのは、極めて高度な能力を備えていないと難しい。
でも、取材を受けたことにより得たなんとも言えないモヤモヤ感は未だに晴れていない。
ネットでその筋の専門家のサイトを覗くほうが質の高い記事を見ることができるし、ネットの一次情報のほうが信頼性が高いときすらあるのだから、ネットを優先したくなる気にもなってしまう。
ただ、紙の新聞にも良い点はある。
例えば、時々目にすると、思いがけない記事に遭遇することなど。
ネットであれば意識的に選別したニュースしか目に入ってこないが、紙の新聞のページを1面から最終面までめくる間に、前日に起こった出来事が経済から社会までひと通り舐めるように把握できる。
であれば、紙の新聞の価値を「情報との偶然の出会いを実現する場」に見出すことができるのではないだろうか?
でも、それは新聞よりは発行間隔の開く雑誌にも期待出来るわけで、結局新聞の存在意義とは?という疑問に戻ってしまう。
個人が「情報はタダで入手できるもの」と認識してしまった以上(この意識を戻すのは限りなく不可能)、メディアが頼るのは広告収入だけとなるのは、メディアとしての中立性を保てない(広告主のご機嫌を損なうような記事はダ出せない)危険性が高まり、結果的にメディアに対する信頼性を損なう結果となってしまう虞れが高い。
メディアは今後どのようなビジネスモデルを築いて生き残っていくのか。
公権力のチェック機関としてメディアが存在するのであれば、公的なメディアは矛盾してしまうわけで、極端なハナシ、政府のプロパガンダ機関と成り下がってしまう可能性すらある。
とはいっても独立した営利企業として立ち行かなくなってしまっていることも事実であるわけで、グレーが成り立つものでもないのだから、このハナシは社会でメディアが果たす役割はなんなのか?というところに至ってしまう。
ぼくたちは情報とこれからどのように関わっていくのか、情報の信頼性はどのように保たれていくのか、向き合っていく必要性は情報が世の中に溢れかえっている時代だからこそ見つめ直すべきことだと思う。

※オマケ

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